›March 01, 2004

2度目のガン発見

Posted by とーる at 10:45 PM / カテゴリー: 2004年 / /

昨年からめっきり老け込んだなと感じていましたが、先日(2004年2月)体調不良で救急車で病院に行った親父は、結果、胃ガンとの診断でした。
けして楽しい話題ではないので、読みとばしてもらって結構です。
ガン患者を家族に持った者の小さな記録として残したいと思いました。

親父の最後まで、書き綴っていくつもりです。
2004年3月1日
渡辺 透

2004.3.1 (月)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

1月ぐらいから体調が思わしくなかった親父が先日「診断結果はガンだった」と知らせてくれた。先週診察をしていた。何だか胃の調子が悪く、常に食欲も無く、気持ち悪いと言っていた。(多分告知はされてないが、親父は感が鋭い)
そうしたら胃癌だそうだ。今回で2回目だ。
最初に胃癌の手術をしたのは、14年前、1990年の事だった。オレはちょうど大学1年生が終わろうとしていた。確か湾岸戦争が起こってる頃だった。
当時の医療技術というのもあるのかも知れないが、あずき大のガンのために胃袋の2/3以上を失った。
今回はあずき大ではなく、もっと大きいらしい。転移を危惧してまた検査があるらしい。転移があったら手術はしないらしい。無理ということだ。

ただし、余命半年とかという事はないらしい。

いよいよ近付いてきているのかと、肝に銘じておこう。

›March 02, 2004

2004.3.2 (火)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日、親父に自伝を書いてくれるよう執筆を依頼した。
以前から頼もうと思っていた事だったが、なかなか言い出せずにいた事だった。
だがもう残された時間が少ないと思うので、思いきって切り出してみた。

親父、お袋、そして祖父母が生きた時代を、なるべく知りたいと思っている。
現代とは全く違う、戦争と激動の時代を生きた人達である。

親父は快く引受けてくれた。
自分にとってだけでなく、大切な記録となると思う。
かたくなに断固戦争反対を唱える親父やお袋の気持ちも不肖ながら分かってあげられるのではないかと思う。

今はただ、残された時間で精一杯親孝行をしたいと思う。
自分は一体何をしてあげられたのだろう。悔しい。たとえ親孝行をしていても悔しいのかも知れない。

›March 20, 2004

2004.3.20 (土)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

いかりや長介さんが亡くなった。ガンだったそうです。
知らなかったが親父と同い年だった。1931年生まれ。学年は一つ違うみたい。
親父は1月7日生まれ、長さんは11月1日生まれ。高倉健さんも1931年(昭和6年)生まれだそうだ。家に昔「わが世代・昭和六年生まれ」とかいう本があった気がする。

›March 22, 2004

2004.3.22 (水)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

入院の日が決まったそうだ。3/26 (金)。来週中には手術をするらしい。
この日はとりあえず最後のライブの日。何だか妙に運命を感じるなぁ。
手術後5年生きる確率は50%とのこと。本人も家族も思ったより良い確率だった。

›April 11, 2004

2004.4.11 (日)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

いよいよ明日は手術だ。8時間もかかる大手術らしい。
おととい見舞いに行ったら、病名や手術の段取りを詳しく教えてくれた。
病名は「残胃癌(ざんいがん)」というそうだ。一度胃ガンを手術し再発するケースらしい。(*1)
豆粒大の胃ガンに胃を2/3も切り取ったのに再発してしまうのかと思う。
今回はもう食道から直接十二指腸につなげてしまうらしい。脾臓(ひぞう)も摘出するそうだ。胃と隣り合っている臓器だから転移の可能性があるから。
親父の話では、どうも未だに「脾臓」という臓器の役割は良く分かっていないらしい。無くてもどうもあまり影響はないということのようだ。

そして手術は、開腹後に転移が見られた場合(ひどい場合?)、そのまま閉じるそうだ。
あちらこちらに転移してた場合は手術しようがない、お手上げということだ。

覚悟を決めているとしても、親父もさぞ恐怖心と戦っていることだと思う。
今朝、中東のテレビ局「アルジャジーラ」によれば、人質として拉致されている日本人3人は24時間以内に解放されるとのこと。本当ならばもちろんめでたい。
明日は親父も解放されると良いな。どちらにしろ、手術後はしばらく寝たきりを強いられることだろう。

(*1)2004.7.7 追記:再発ではないそうです。新生第2胃ガンだそうです。

›April 12, 2004

2004.4.12 (月)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

手術。
朝9時に始まった。
特殊な麻酔なのか、口から太いケーブルを入れての麻酔らしい。苦しかったろう。とにかく痛いのとか苦痛は辞めてくれという親父の意向なのかも知れない。
10:45
早くも執刀医が出てきた。
開腹したものの、転移がかなりあるのだろう、そのまま縫合しましたとのこと。
当初「術後5年間生存する確率は50%」と言われていたのは訂正されて、「生きていられるのはあと4ヶ月ほどでしょう。」とのこと。
ショックだ。そこまで進行してしまっていたのか。
手術後あちこちからチューブを差し込まれている姿が痛々しかった。
夕方からはほとんど外されて、点滴だけになった。親父が「人間らしくなったか?」と聞いてきた。
ずっと以前から親父は「チューブまみれなのはご免だ。痛く辛いだけなのに、ただ生かしておくためだけの延命措置もまっぴらご免だ。」と繰り返し言っていた。みじめな気持ちになるのだと思う。
親父はもう「余命最短4ヶ月」と聞いたのだろうか。
担当医も言いづらいと思う。オレが医者ならそんなこと本人に言いたくない。
ゴルフの4大メジャー「Masters」が今朝終わってしまった。こんなことだったら、ゴルフが大好きだったしテレビで見たかっただろうなぁ。
お袋に聞いたが、生きている間にスペインのバルセロナに行きたいのだそうだ。
ホントなら喜んでガイドでもボディーガードでもしてやる。70代の老夫婦二人で行かせられないさ。
今までありがとう。良い息子じゃなくて申し訳ない。
早く退院して行こう。


6/6 (日) 追記。
お袋によれば、医者は「おそらくあと4ヶ月程度。短ければ2ヶ月ほど。」と言っていたのだそうだ。
これは知らなかった。そして改めてショックだ。

›April 13, 2004

2004.4.13 (火)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日は麻酔が切れて痛みが激しいのか、ちょいと不機嫌な様子。
不機嫌ではなく、つらいのだ。
熱があるし痛いしでとてもつらそうだ。手術後は熱が出る。39度近い熱があった。それはつらい…。気を使ってなんかいられない。
こんな時、病院の外を「アホみたいに爆音をたてて走っていく」クソトラックに殺意を覚える。ワレ、静かに走らんか!その太いマフラー、ケ◯の穴突っ込んだろかと思う。(失礼)
車でもバイクでも、果ては音楽もそうだけど、自分が素晴らしいと思っている「サウンド」は時と場所を選ばなければ、かっこいいどころか「うぜー」だけだ。

親父はもう余命最短4ヶ月の報告を聞いたのだろうか。多分聞いているだろう。それで今日は心の整理が付いていなかったかも知れないなぁ。ガンバレ親父。

›April 14, 2004

2004.4.14 (水)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日はずいぶん体調が回復して来てる様だった。もう歩いていたし、時おり笑みも浮かべていた。
おまけにまだ禁止されている「水を飲む事」までしてた模様。ま、ほんのお湿り程度の量だから大丈夫とは思うが、ちょっと飛ばし過ぎだろ。

食欲は親父の強い生命力の源なのだと思う。(そのくせ、塩からいだの熱いだのうるさい。これはどうかと思う。)
親父は確か9人兄弟だったらしいが、幼い頃、すぐ下の弟と二人で病気になったそうだ。風邪とかじゃなく赤痢か何かの重病で。そして弟さんは食欲が無かったが、親父は何でも良いから、薬でもいいから何か食わせろとうるさかったらしい。子供、そして病人ながら大した食欲。そして親父は生き残り、弟さんは亡くなった。祖母(親父の母)は死ぬまで「死んだ弟は良い子だった…」と言い続けていたそうだ。親父はいつもブツブツ言ってる。
食欲は命の源なのでしょう。様々な物が不足していた戦時中は特にそうだったのでしょう。

›April 16, 2004

2004.4.16 (金)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日は点滴まで外れた。(外した?)ただ、下痢がひどくかなり体調が悪かった様子。
明日は外泊許可が出たようで、昼頃家に帰り、日曜の夜にまた戻る。
日に日に回復してはいるが、やはり末期ガン患者であることに変わりはない。まずは開腹した手術から着実にゆっくり回復して欲しい。

›April 19, 2004

2004.4.19 (月)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

明日はようやく退院だそうだ。手術2週間ほど前から検査や何やで入院してたので、1ヶ月弱の入院だった。しかし、今日抜糸するのに退院して大丈夫なのか?

›May 01, 2004

2004.5.1 (土)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

昨日、あるいはおとといか、親父が半袖になっていた。多分風呂上がりだったかと思う。
久しぶりに見た親父の二の腕は、木の枝のように細かった。
子供の頃は良く力こぶを見せてくれた腕だった。どうしても腕相撲で勝てない腕だった。
いつの間にこんなに細くなったんだろう。ショックだった。

どうやら自費出版で本を残すことになったようだ。以前から月刊誌に執筆していた内容も含めるようで、そのコピーを読ませてもらっている。息子だからという「贔屓目(ひいきめ)」もあるのかも知れないが、とても面白い。というか、こんなの書いてたの今まで知らなかったぞ。
生まれた時から海外で育った自分と違って、親父もお袋もイタリア在住初期はかなり苦労をしてたんだね。親父も長い人生の間、数々の友人の死を経験してきていたんだね。
その人達のためにも、いや自分のためだけで良いから、書いて残していって欲しいと思う。
親父がいて、親父と共に同じ時代を生きた人達がいる。
自分は親父としてだけではなく、先人としてあなたたちの生きた時代を知りたいと思う。
その足跡があって、今があるのだから。

›May 10, 2004

2004.5.10 (月)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

もう開腹手術の傷は全く治ってきたみたいだが、やはりお腹が「ひっぱられる」のか「つっぱる」のか、相変わらず猫背だ。こういう場合、手術前の体力にはなかなか戻らないそうで、疲れやすいようだ。それでも毎日、出かけて歩くようにしている。
最近気になるのは、食事の量がかなり減ってる気がする。食べられなくなって来ているのだろうか。
つい2〜3ヶ月前でも一般成人男性の半分程度だっただろうか。(元々胃がほとんどないのだから、そんなに食べられないが)それがここ2〜3日はおかゆのような柔らかい食事を少し。ゆっくりと食べている。ゆっくり食べるようにしているのだろう。
あさってで手術から1ヶ月か。

›May 19, 2004

2004.5.19 (水)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

飲んでいる薬のせいなのか、ガンの進行のせいか、親父は先週から嘔吐を繰り返している。見ていてつらそうだ。
でも、心配させたくないのか常にコップの中に静かに戻し、洗面所に流し、うがいしている。
オレはなるべく気付かないフリをしている。それが良いのか分からないのだが。
食事はここ1ヶ月ほどは「お粥」がメインである。消化が悪くなっているのか「ヘビー」なものは食べたいと思わないようだ。それでも食後間もなく戻してしまうので、痩せる一方だ。
昨日はユニクロにシャツとズボンを買いに行ったようだ。ズボンはゆるく、シャツはダボダボになってしまっていた。
退院後はホスピスを紹介してもらい、週に1回ほど来てもらっている。
6月末には、2番目の姉夫婦がアメリカからやってくる(オレには姉が二人いる)。手術直後に、親父の承諾無くお袋が連絡していたので、親父の状況は伝わっていた。

親父は今日は30册ほどもあるパスポートを引っぱりだし、どこにいつ行ったかという詳しい「渡航期間」を調べていた。親父は海外生活が長い。おかげでオレも海外生活が長い。というか、日本で生まれていない。
最近は時間がもったいないのだろう。親父は夜遅くまで起きている。もしや良く眠れないのかも知れない。
親父は野球が大好きだ。
今日はメジャーリーグではダイヤモンド・バックスのランディ・ジョンソンが「完全試合」を達成したそうだ。史上17人目、40才での達成は最年長、21世紀では初めてだそうだ。
実は今日は、孫にあげていた観戦チケット「神宮球場 ヤクルト-阪神戦」の日だったのだが、関東地方は(全国的に)朝からの雨で中止になってしまった。雨天中止のチケットはまた後日見に行けるので、そのことを自分から孫に電話していた。
孫は少年野球のピッチャーをしているのだ。

›May 21, 2004

2004.5.21 (金)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

昨日は泊まり込みで、友達の方々と出版物の相談をしていた模様。
しかし今日は何も食べていない。牛乳を飲んでいたが、戻してしまっていたようだ。戻してしまう状態では食欲などないだろう。昨日は疲れただろうし、今日も書類を作っていた。今は眠っている。
でもこれでは痩せる一方だよ。
親父が見る見る痩せていくのをどうにも出来ないのは、無力感ばかりが支配してたまらん。
つらい。
一番つらいのは親父だけどなぁ。
つらいのに、心配をかけないように静かに便所に行って戻している。こっちが心配すると余計落ち着かないのだろう、逆にそれを気にしている。誰でも監視されてたら落ち着かないよな。
だからバレバレだけど、気付かないフリをするよ。それもつらくてちょっと泣けるけどね。
そういえば、バルセロナには行けないなぁ、親父。
ああ今日は無性にこみ上げてくるね。
ちょっと出かけてくるとしよう。

›May 24, 2004

2004.5.24 (月)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

基本的に食事は牛乳だけになった。飲むと言うより、常にちびちびと流し込んでいる。
今日はどなたかに頂いた何とか豆腐を少し食べた。固形物はもう1週間ほど食べていないか。
土曜日にはあまりの嘔吐に、薬が変わった。痛み止めが、今までのものと違ってより強くなったようだ。

心配していた嘔吐だが、少しは少なくなっている模様。ただし影でしているかも知れない。
少しずつだが牛乳を摂取しているせいか、便通(医者によれば、これがとても重要とのこと)は、まああるようだ。
日に日に体力は衰えている。10分ほど外で歩いていると辛くなってくるようだ。腰のあたりがチクチク痛いと言う。すぐ座れる場所を探す。場所によっては驚くほど座れる場所がないことに気付かされる。老人や病人には優しくない場所も多い。
出かけるといっても、せいぜい錦糸町(もよりのJR)まで。それでも親父は一日に一回は出かけるようにしている。自分でも体力の低下を気にしている。遠出をしないのは上のように、疲れたりした時に困るせいである。考えているのである。

明日はT叔母さんの展覧会がある。本来親父が行く予定だったのだが、いける状況ではないので、代理でオレが行く事になった。そして自費出版本の原稿をお渡しする。表紙の絵を描いて頂くそうなので、おおまかにでも読んでもらいたいとの事。展覧会も楽しみだ。親父が写真を撮ってきて欲しいと言う。見たかっただろうし、1冊にまとめた本があると良いのだが。
今日は介護保険の申請をした。あさってはとうとう「医療用ベッド」がやってくる。あまり愉快な気持ちではない。
本来は良い事なのだが、ベッドも何種類もから選べるようで、親父は少し不機嫌だった。説明が長かったのもあるだろうし、それ以上に、自分がそのうち寝たきりになるであろうベッドを選ぶのは、自分の入る棺(ひつぎ)を選ぶような気持ちだと思う。
親父が欲しがった「寝ながら(横になりながら)本を読めるスタンド」は介護保険では適用にならないらしい。ちょっと探してみようと思う。無かったらオレが作ってみようと思っている。それほど難しくはないと思うし。美しくは出来ないだろうけどね、時間かけてる場合じゃ無いし。

5/29追記:見つけたブックスタンドをいくつか見せたが「好み」にうるさいので、はなから自作は辞めることにした。(笑)しかも実際の用途は、本だけでなく色々な書類(送別関連の)を広げたりするので、今の所、介護用のベッドテーブルがベストの模様。

›May 27, 2004

2004.5.27 (木)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日は友人であられるOさん、Nさん、T叔母さんがいらした。出かけていたので分からないがかなり疲れた様子。そして変わらず嘔吐は続いている。今日はかなり具合が悪い。牛乳と最近好物のシャーベットを食べたが、全部と思われるほど戻ってしまった。
しかし辛いであろうに、目立たぬように戻し、目立たぬように後始末をしていた。親父はまだまだそういう世話はかけたくないのである。

昨日の昼は、お袋が作ったミネストローネ(我が家では「ズッパ・ディ・ベルドゥーラ」とイタリア式に呼ばれている)をおちょこ一杯ほど食べた。いつ以来の食事だろう。おいしく食べていたが、少しして戻してしまった。
そして午後には介護用のベッドが届いた。高さ調節、上半身上下、膝上下が出来る本格的な医療用ベッドだ。寝室ではなく、テレビが見れるよう居間に備えられた。しかしいずれここに寝たきりになる事が分かっているので、昨日の夜は親父は「いつもの」寝室で寝ていた。

最後に外出したのはいつだろう。月曜かな。おそらく近々車椅子が必要になるだろう。
来週6/3は千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」を見に行く予定。親父はもう車椅子で見て回るつもりでいたが、調べてみたら無料で車椅子を貸してくれるそうだ。
まだ元気だった先日でさえ10分ほど歩いていたら、体力が尽きてしまった。新しくFaxを買いに行った日だった。ちなみに今はFaxは感熱紙ではなく普通紙に印刷されることを初めて知った。ホント技術革新が速いな。

思えばここ2年、毎年身内が逝ってるんだなぁ。おととしは祖父、昨年が祖母。思えばここ最近毎年喪中だ。
親父は今年逝ってしまうつもりのようだ。(親父の大好きな野球、今年のシーズンは最後まで見届けられない覚悟だと言っていた)今の調子だと否定しづらい。オレが見ているだけでも(見て見ぬふりをしているだけでも)ほぼ全て口から出てしまっているように見える。親父の推測は結構当たるから、この場合ちょっと困る。
まぁ以前から親父は「いくら長生きできたとしても、体が元気で頭脳がいかれてしまった状態(重度の痴呆など)ではどうしようもない。よれよれで生きているより、迷惑をかけずに死にたい」としきりに言っていた。
お袋も数年前からずっと介護しっぱなしで、お婆ちゃん亡くなってしまったけど、ようやく介護から解放されたのに、またこんな事で、色んな意味で辛すぎるよなぁ。自分ももう立派に72才のお婆さんだと言うのに。
オレも出来る限り努力するよ、母さん。

2004.6.13(日)追記:祖父はおととしではなく3年前(2001年)に、亡くなりました。ボクの勘違いでした。よって昨年2003年の正月は喪中ではありませんでした。

›May 29, 2004

2004.5.29 (土)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日は牛乳も飲めなくなった。かき氷を少々食べたようだが、立ち上がるのも辛そうだ。最後の栄養源の牛乳も入っていないのでは体力の低下も激しい。何だか意識も少し朦朧(もうろう)としているようだ。昨日までとはまるで違う。上から飲食物が入っていかないのだから下からも出て来ない。トイレに行くことなどめったに無い。飲み薬(痛み止め)がダメなので、座薬を入れに行くぐらいか。

昨日は来客があった。茨城の叔母がいらした。大変有難いのだが、日に日に体力が減り続けている親父にとって「お見舞い」はもう嬉しいことではない。しかも突然いらしては尚更。自宅であろうと、来客があるだけで相当消耗する。昨日はちょっと参った。親父もぐったりしていた。
本日も違う方が来たいと言ってくれたが、さすがに断ったようだ。
家族としてもお気持ちは本当に有難いのだが、お見舞いに来てくださるのは微妙な所だ。
自分も今まで深く考えたことが無かったが、相手(病人なり怪我人)そして家族の気持ちを大切にしなければと感じる。
病気であれケガであれ、治る見込みがあり、かつ回復途上、あるいはほぼ回復しているのに病院にいる場合はおそらく良いでしょう。健康な人にとっては入院はヒマだ。そして家族や友人がいないことは淋しいだろう。
来てくださるのが、あと2週間、いや1週間前だったらまだ体力もあり、親父も嬉しかったかも知れない。

親父は、衰え、痩せ細っていくみじめな自分を人に見てもらいたく無いのだ。
「葬式」ではなく「お別れ会」と称して式を省きたいのは、家族にも友人の皆さんにもあまり悲しんで欲しくないのだと思う。
本当は今オレが書いてるこんな手記だって書いて欲しくないかも知れない。でもオレは書くよ。これは自分の手記でもあるし。

色々な方が一目お会いしたいと言ってくださるのは嬉しいことだが、もうほぼ全ての面会をお断りをせざるを得ない。
安らかにさせてあげてくださいとお願いするばかり。
この先、電話も制限させていただく時期が近いと思う。おとといぐらいまでは電話は平気だったが、今日は電話もつらそうだ。意識がはっきりしないのだから当然か。

半年ほど前に、両親共に耳が少し遠くなってきたので、玄関のインターホンの音を少し大きくしたのだった。それを今日は音量を大幅に下げた。
親父はちょっとした音でビックリするようになってきている。テレビの音もうるさいようで今日はかなり下げてある。

親父は愛煙家だ。今は食事もしないので、余計口淋しいだろう。今も吸っている。
ただ昨日あたりから、うとうとしていることが多くなっているので、ちょっと危ない。オレかお袋がいるから良いが、火事はゴメンだ。

ちなみに家族としては、死期が毎日近付いてきている親父と一緒にいると、本当に悲しくなってくる時がある。気が滅入り過ぎる時がある。1日中一緒にいるお袋は尚更だと思う。
出かけて家に帰ってくる度に状態が必ず悪化している。本当に刻一刻と。
一緒にいたくないとかそんなじゃない。なるべく一緒にいたい。
でも、家族も息抜きが必要なんだなと痛感する。
お袋は今でも、毎日夕方には買い物に出かけて、色々見てきている。お袋なりに息抜きをしているのだと思う。オレもどうしても泣けてくる時は出かけてる。時には二人とも違う部屋に行って鼻をかむ。親父には見せないようにね。
そしてお互いそっとしておいてあげるのがマナーかな。(笑)
だからオレが自分の部屋で鼻かんでる時に「ヨーグルト食べるかい?」とか声かけるのやめてくれ、お袋。(笑)頼むからほっとけ。(笑)

おそらく親父も本当は一人の時間が欲しいに違いないと思う。

ニューヨークにいる姉夫婦は親父の病状を知り、当初6月末来日だった予定を更に早めて6/15に東京に来る事になった。6月末でもかなり頑張って早く来る日程だった。何せ子供4人の総勢6人の家族なので色々大変だと思う。学校もあるし。
早く姉夫婦と孫に会えるといいなぁ、親父。
頑張らなくても良いからさ。早く会えると良いなぁ。(親父は今「頑張れ」と言われるのを何よりも嫌っている。治る、治す可能性すらない状態では頑張りようがないわな。)

19時過ぎ、少し牛乳を飲み、豆腐をひとかけら食べた。塩分の補給も足りていないだろう。醤油も最近好物だ。おいしい、おいしいとなめていた。胃ガンのくそったれ、少しは消化して、腸まで食物を通しやがれ。
23時、ちょっと戻ってしまった模様。珍しく食物が腹の中で納まったかと思っていたが残念。
でもすっきりしているようだ。ちびちび牛乳をやっている。遠目に見ると酒をちびちびやっているように見える。

2月に、体調が悪いとは言え自分で歩いて救急車に乗り、その後も少ないながらも外食する事も出来たのに、わずか3ヶ月でここまで人体を蝕むこの脅威。巨大化した癌のスピードは恐るべし。
先日ニュースか何かで「癌細胞は1mmから2mmのサイズに成長するのに10年、1cmから2cmに成長するのに1年ほど?(かなり記憶が怪しい)」とか言っていたので、ググってみた。
国立がんセンターは見つかったが、前述のような具体的ながん進行のスピードについては書いていなかった。まぁ個人差も相当あることだとは思う。
「はじめは30〜60ミクロンの大きさから出発し、年単位の時間がかかって5mm程度の大きさになるころから発見可能になります。」とのこと。
オレも年に1回は定期検診を受けるようにします、ハイ。もう健康診断など十数年してないなぁ…。

他にも色々と興味深い事が書いてあった。

◆日本人の死因のトップは「がん」。
現在は男性については「肺がん」がトップだが、男女とも長い間「胃がん」がトップだった。女性は今でも「胃がん」がトップ。
◆アメリカも20世紀初頭は「胃がん」がトップだった。
しかし次第に減少し、今では珍しいガンになった。
◆日本も現在では「胃がん」は減少傾向にある。
◆アメリカでは冷蔵庫の普及と共に減少しており、食糧の保存方法が変わってきたため減少してきているとの見方が強い。
◆「胃がん」は「塩分」と関係が深いようだ。
冷蔵庫普及以前は「塩漬け保存」が多く、塩分の摂取量が多かった。それが冷蔵庫の普及により「塩漬け」が減ってきた事が胃がん減少と関係があると見られている。
日本では冷蔵庫が普及しても、漬け物などの「塩辛い」食習慣から、あまり「胃がん」の減少が速くないと言う事か?

なるほど。
理由や原因は特定出来ないが、親父はまぎれもない胃がんである。
余談だが、オレもやはり「胃がん」が自分への一番の刺客だと思っている。事故とは抜きで。
親父のお袋さんが胃がんで73才で亡くなり(親父も現在73才)、親父もこれで2回目であり、T叔母さんも一度手術されているそうで、他にも兄弟の方はなってる人がいたように聞いている。これは胃がんになりやすい「家系」だと考えて当然でしょう。

今日親父が書いていた言葉を思い出した。
『世の中には色々な病気があって、全てに注意するのは不可能だし意味がない。他にも事故にあって死亡する事もある。この歳だから色々な覚悟はしていたつもりだ。それでも「もう1回胃がんになる」というのは不意をつかれた感じだ。まさしく「やられた」。』

›May 30, 2004

2004.5.30 (日)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

本日は伯母にあたるハマさんとそのご主人にお会いした。沖縄にお住まいで、今日上京された。親父は9人兄弟だそうだが、親父方の御兄弟は定期的に「いとこ会」という親戚の会合が開かれている。オレは一度も言った事はないし、息子、娘の代で出席されている人がいるのかも不明。
今日は親父のピンチヒッター(死語?)ということで、お袋と共にお会いしてきた。
このご夫婦は敬けんなクリスチャンでおられ、ご主人は会社を退職後、神父になられたお方だった。ご一緒に夕食を食べたのだが、食事の前にお祈りをされていた。
親父の事を心配してくださっていたが、親父からはお茶を濁すように言われていた。明日「いとこ会」があるのだが、その場が一転して祈りの場になってしまう事を親父は避けたいのだ。せっかくの再会の場が楽しくなくなってしまうのがイヤなのだ。
手術をした事はご存知なので、その後リハビリをしている事になっている。
まぁオレは初めてきちんとお会いした所で、お袋がほとんど話していた。それでもお袋も親しいわけではないので、昔話に花が咲いて良かった。沖縄はとっくに梅雨入りしているそうだ。

親父は今日は少しは具合が良いようだ。意識もはっきりしている。iBookに向かって作業をしては、疲れてくると眠っている。

最近は親父は「しゃっくり」が良く出る。この「しゃっくり」が嘔吐の信号なのだ。かなり激しいしゃっくりで大きな音が出ている。そこまで飲食物が拒絶されている。
昨日から東京も暑い。こないだまでの春〜初夏を思わせる快適な気温と変わって、夜でもベタベタする完全な夏の気候になっている。昨日あたりから口にするものはシャーベットのみになり、今日も暑いのでシャーベットを良く食べていた。しかし丸ごと一つ食べてしまうと確実に戻ってしまうようだ。夜に戻してしまった。まぁ戻した後はケロッとしていた。

苦しみや痛みさえ少なければ、死への時間が少し許されている親父の状況はラッキーなのだと思う。言い残す事、書き残す事が少しは出来る。「身辺整理」も少しは出来る。
ただ一方では公表する事の影響も考えなくてはいけないのだなぁ。
治る見込みのなくなってしまった末期ガンの方々は皆、そう考えられて、亡くなるまで公表しないのかも知れない。いかりや長介さんもそのようにされたのかなと思う。

›June 03, 2004

2004.6.3 (木)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

昨日は良かった体調も昨晩から悪化し、今日はかなり弱っている。嘔吐物に血液と見られるものも混じっている。
今日は楽しみにしていた千葉県佐倉市の「歴史民俗博物館」に行こうと予定していた日だったのだが、結局無理になってしまった。親父にとって「来週」という予定はもうたてられない。
加速度的に病状が悪くなっている。
昨日は何とか食物を取り込もうと努力していたのが(結果として)逆効果になってしまったのだろうか。今日を楽しみにしていたんだろうな。

昨日の話では、体重は43kg、今日の計測では42kgだったと言う。一歩一歩死神が近付いてきている。
3月頭ぐらいには51kgほどあったと言っていたから、もう10kg近く失った。見ている所、その殆どはこの1ヶ月間で失われているように感じる。手術後から一気に悪化している。

少し安定してきたので夕方、車椅子に乗ってお袋と3人で車で散歩に行った。葛西臨海公園に行き、観覧車に乗る。オレは初めて乗った。そして色々進歩しているのだと感心した。全て車椅子のままで乗り降り出来るようになっていた。乗り場の2階までエレベーター、そして乗り降りの際は観覧車を止めて、タラップをしいてくれた。
その後、車上から眺めながらお台場を通り、レインボーブリッジを通り、ちょっと飲みたいと言うのでスターバックスのエスプレッソコーヒーを買って帰った。
「明日は無い」という覚悟を自分に再確認した。

飲み物は「氷水(こおりみず)」だけになった。昨日あたりからとてもベタベタした痰(たん)が出るようだ。あっという間にティッシュが無くなる早さ。
それからここ2〜3日から、やたらと「風呂好き」になった。本人曰く「こんなに清潔好きなのは生まれて初めてだ。(笑)」とのこと。何だろうと思っていたが、理解出来た。
今使っている鎮痛剤は貼るタイプの薬で皮膚から吸収される。これは末期ガン患者に使われる「麻薬成分入り」なのだ。ちなみに数箱分で30万円近くしたらしい。手に入りにくくしている訳か。
この鎮痛剤は体温が上がって血行が良くなると「ちょっと効き過ぎる」ようなのだ。つまりお風呂に入ると少し楽になるようだ。薬の使い方としては邪道であり、このような使い方はしない方が良いと言われていたが、これは致し方ない。鎮痛剤は昨日量を増やしたのだが、それを上回るペースで病状が進んでいるのか。
親父は昨日もおとといも良く眠れていないと思う。おそらく眠れないのだと思う。日中も少し眠って、また起きて執筆している。
今日の体調の悪さに親父もいよいよと思ったのだろう。執筆のペースを上げたと言っていた。無理はしないで欲しいのだが、キーボードを打てなくなるのも正に時間の問題だと思ったに違いない。iBookに気力で立ち向かっている。今日は立ち上がるのも「何とか一人で」の状態。秋頃どころか「7月」が遠い彼方の先に感じる。
何も食えねぇんだもんなぁ。

姉夫婦が東京に来るのは6月15日。まだほぼ2週間あるよ。何とか間に合ってくれ。
孫の顔を見たがっている。
今の親父には2週間は長すぎて、短すぎる。

先週すたすた歩いて通った道を、今日は車椅子で通る。来週など未知数だ。きちんと明日が親父にも来て欲しいのみ。

オレが何とも悔しく感じる時は、「あれ食べたかったなぁ。」とか「あそこ行ってみたかった。」という希望を叶えてあげられない時だ。今日はそんな気持ちになった日だった。

›June 04, 2004

2004.6.4 (金)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

今日も癌細胞は猛威をふるっている。定期的に黒褐色の液体を嘔吐する。時間的には数時間おきぐらいか。数日前「オレの小さな胃袋にこんなに物が入っていたのかと思うほどの量だ。」と言っていた。食べたものが全て出ている時期はとっくに過ぎたのだろう。今はおそらく血液、消化液を戻している。
体の中ではものすごい戦いが繰り広げられているのだと思う。増殖を続ける癌細胞、出血する臓器を止血しようとする血小板、胃の中の血液を消化しようと消化液を出す胃、肝臓、その他。圧倒的に数が少ないだろうが、必死に癌細胞を攻撃するNK細胞、そしてそれらの残骸。
その全てが空腹であるはずの小さな胃袋を満たし、溢れてくる。
そしてコントロールの効かなくなった体と親父の頭脳が鬩ぎ(せめぎ)あう。
癌に関わらず、これが闘病というものの実態である。
闘病は家族にも及ぶ。今の親父のように「自宅で」天に昇ろうという場合は尚更だと思う。
親父が盛大に洗面器に戻している間、オレとお袋は、結果的に変わりばんこに飯を食う。
とてもじゃないがオレも戻しそうだったけど、うまく収まってくれた。だがはっきり言って飯がまずい。どんな味だったか覚えてない。しかもお袋はカレーライス食べてた。(笑)

これは戦いなのだね。見えざる物との戦いだ。


がん関係リンク集:

国立がんセンターHP

がんはどこまで治るか?

癌と免疫

「免疫」のメカニズム

もし癌になってしまったら

それにしても、今日の弱り方も恐ろしいスピードであった。本日の体重41kg。
昨日の晩は良く眠れたようで、午前中は体調が良さそうだった。そして昨日の散歩が久しぶりの外出で(と言っても数日前の話だが)、とても喜んでいた。
今日も楽しみにしており、午後、上野公園に行きたいと言っていた。国立博物館を見て回りたいと。
だが、昼に大量に嘔吐。
その後、少し眠る。15:00頃、起きて風呂に入る。以前書いたように血行が良くなり麻薬(鎮痛剤)が体を巡り、とても楽になるのだ。オレは午前中外出していたので気がつかなかったが、これが本日2回目の風呂。親父は「今日の上野は中止だな。ちょっと無理だ。コロコロ変わってすまない。」と。 すまなくなんかないんだよ。
そして一服。Peace Lightを愛煙していたが、1ミリのタバコは何か無いかと言う。最近はMild Sevenも1ミリがあると言うと、それを吸ってみると。買いに走る。一服後、再び、パソコンでの執筆に励むが、最後に書いていた原稿が見つからなくなった。オレも探したが、ファイル名も分からず、どうにも見つからない。意識も朦朧としているようだが、何とか踏み止まっている感じだ。
その後、居間の電灯を取り替えたいと言い出した。22年使っているが、昨日とうとう「ヒモ」が切れて、中途半端な明るさで調節出来なくなっていた。暗いのがどうにも滅入るし、ノートパソコンの画面が見づらいと言う。にわかには受け入れられなかったが、急遽電気屋さんに来てもらって、カタログ拝見。明日の午後、交換を快諾してくれた。

2004.6.13(日)追記:
おそらくこの頃から、視力も弱くなってきていたのだと思う。パソコンの小さな画面がどうにも見づらくなってきていたのだろう。老眼鏡を変えてみたりもしていた。

余談だが、ここ1ヶ月、親父と運命を共にしているのか、家の家電製品が次々と壊れた。
まず、テレビ。これはもう数年前から壊れていたのだが、だましだまし使ってきて、2週間ほど前にとうとうご臨終。親父は野球が大好きでメジャーリーグをハイビジョンで見れるということで、念願の?ハイビジョンデビュー。その画質の素晴らしさには親父も感動していた。「芝生の1本1本が見える!」この時は親父も一緒にお店まで見に行けたのだった。ただそこは末期ガン患者、すぐ腰に鈍痛を訴えたので、即購入し、帰宅した。
個人的にはハイビジョンテレビは、まるでパソコンのようだ、と最近のテレビの最新テクノロジーに驚く。
そしてFaxの不調。この時も親父は一緒に見に行ったが、体調のため即購入。今のFaxは「普通紙印刷」であるという事を知った。ずーっと我が家は「感熱紙」だったのだ。今度のはしかもEメールまで出来る。やらねーよ、なんて悪態をついてみる。
そして居間の電灯の買い替え。今日聞いたら今は「グローランプ」など使わないのだそうだ。明るさも桁違いに明るいのだそうだ。何だか自分もすっかり老人になった気分。へこみ。

夕方、お袋は再び夕食の買い出しに出かけた。書きかけのファイルを見つけだした親父は、しばらくパソコンに向かい、思考しながら書いていたが、突然立ち上がろうとしたので、あわてて補助をする。今朝は自分で立ち上がれた体は、もう自分では立ち上がれなかった。

どこに行きたいかというと「風呂」と言う。親父は苦痛がつらいのだ。洗面所まで担いでいき、とりあえず座らせる。急いでお湯を組む。(40℃という親父の指定がある。高すぎるとのぼせるし、ぬるいと血行が良くならない。お湯は捨てずにとってあるので、半分捨てた後、熱湯を注いで熱くする。「おいたき」が出来ない我が家は今では古い家屋なのだろう。)お湯はすぐに汲めるので、その間に服を脱がせる。ついさっきまで風呂場で自分で衣服を脱ぎ、自分で入っていたのに、このスピードで自分の主(あるじ)の体を蝕んでいくのか、ガン細胞よ。
膝を抱えた姿勢でしばらくつかって、楽になった所で、体をふいて服を着せる。つい3日前までは息子に裸をさらすのを恥じていた父も、今はなすがまま。静かに「ありがとう。」と言ってくれた。このぐらいやるさ。

その後、ヤクルトー巨人戦を見ながら、深い眠りに付いた。
そして、ガン告知、そして自宅療養開始以来、初めてお袋と深く語った。親父の最近の病状のスピード、そして最期の覚悟の必要性について語った。親父が起きてる間にはとても話せないよ。
せっかく今日はヤクルトが競り勝ったのになあ。

これまでの日記を1つのエントリ(1ページ)で書いていたのだが、容量の限界になったようで、この後が切れてしまった。
最終的に朝の5:00頃まで看護していて、色々書いたのだが、思い出すのももうおっくうだしあまり意味も無い気がするので、そのまま。

›June 05, 2004

2004.6.5 (土)

Posted by とーる at 11:00 PM / カテゴリー: 2004年 / /

6/6 (日) 5:00am。
今日も怒濤のような1日だった。ようやくオレも少し落ち着く。ノンストップ労働の休憩。
「常にスタンバイの状態」というのは16時間も持たないねぇ。ちょっと反省。

6/5 (土)
午前5:00頃、起きてきたお袋と交代してオレが寝た後、すでに起きていた親父は2度風呂に入ったそうだ。6〜7時頃と10時頃だったような。
15時、NさんとOさんがいらして「編集会議」をする。意識があまりはっきりしない。
話すのも非常に大変そうになってきた。
戻す回数はとても増えて、ほぼ常に戻している。そして朝は量が多かったようだが、昼以後はずいぶん量が減ってきた。現在、6/6午前3:00スプーン一杯ほど。今日は透明無色。医者が言っていた通りだそうだ。無色透明のと黒いのとがこれから交互に来るそうである。

17時頃から眠る。かなり深い眠り。19:30頃目を覚ます。その後、うつらうつら状態が続く。21時頃少しすいかと氷をひとかけら食べて、戻す。
23時頃お袋眠る。うつらうつら眠っているがかなり苦しいようで、30分置きに苦痛で目を覚ます。背骨が痛いと言う。楽な姿勢を探しては少し眠る。

起きてる間は要望がノンストップなので、大変なのである。オレは夜中じゅう起きて看護し、朝、お袋と交代して眠る。お袋が一人の間がかわいそうなのだ。親父は我慢が出来ないので、看護している側は大変である。

6/6 (日) 4:00am。
苦痛がひどいようで、すぐ起きてしまう。夢を見ていたそうで、ジャン・レノが(おそらく「レオン」の風貌のまま)親父をいじめるのだそうだ。背骨が痛いと言う。
オレの提案で親父は風呂ではなく、シャワーを浴び、久しぶりに体を洗う。親父の体を洗ったのは子供の頃以来だろうか。その後しばらく起きていたが、横になって眠った。

最近いつもの風呂である。が今回は自分で立っている事は出来なくなった。服を脱がせ風呂場まで行くと、まずする事があると言う。体重を計るのだ。
体重39kg。
毎日きっかり1kgずつ落ちていっている。飲まず食わずなのだから当然だろうか。
そして今度は全身鏡で自分の体を見ると言う。玄関まで連れていき、手鏡を渡すと背中まで写してじっくりと眺めている。その間もオレは体を支えている。納得したようだが何を思っていたのか。
どうしても写真を撮れというので、撮る。
この時が最後、一人で立っている事が出来なくなった。今日(6/5)午前中まではパソコンをいじっていたが、午後にはキーボードが打てなくなった。それ以降パソコンは触っていない。
手元がかなりおぼつかなくなった。握力もかなり低下した。話すのもひそひそ程度。6/5夕方以降、ベッドを降りたのはシャワーの時と、その後30分ほどだけ。
毎分毎分、体力が低下していく。それでも眠った後はかなり元気になる。寝てる・起きてるの周期がとても短くなっている。寝ているのは今日までで長くて数時間、それより少し短い間起きているだろうか。

今日はオレも体調が良くない。というか恐ろしく自分が老けたような気がする。少し頭痛もする。
見ている親父の毎日の衰え方が、健康な50代の人の10年ずつぐらいの衰え方に近いだろうか。食べてない上に体内がどんどん侵食されているのだから当然だが、こないだ外を歩いていたのが、おとといは車椅子になり、昨日は外にも出られなくなり、今朝キーボードをカチャカチャやっていたのが、午後には手が不自由になってしまう。
そんな親父を見ていて自分も衰えていってるような錯角に陥る。
時間の感覚も今日は良く分からなくなった。昨日あった事が、まるで一週間前のようで、おとといあった出来事が、一ヶ月前の出来事のように感じた。
思考も混乱していて、一つの事に集中出来なかった。常に親父が気になって、全く集中出来ない。食事までそうなってしまった。
今はずいぶん戻ってきた(気がする)。
ちょっと腰も痛い。お袋が起きてきて、エンジンかかってきたら少し休ませてもらおう。

6:00 am。
親父は少し眠って、起きて少し戻した。先ほど少し飲んだお茶の色だった。
ベッドを色々調節して(膝の高さ、頭の高さ)また眠りにつく。


1回のエントリ(投稿)にまとめて書いていたこの日記を、一日ずつに分けてエントリし直した。目に入った所だけ軽く読む。
親父の手術が4/12(月)、退院したのが4/20(火)。何か遠い昔のように感じてしまっていたが、わずか一ヶ月半前の事だった。オレは疲れてるのかな。でも緊張しているのか、だるいのだが眠くない。動きたくないが、頭は色々考えている。

昨晩(6/5)親父が眠っている間に、お袋と話していて驚いた事が一つ。
お袋によれば、医者は「おそらくあと4ヶ月程度。短ければ2ヶ月ほど。」と言っていたのだそうだ。
これは知らなかった。そして改めてショックだ。

›June 06, 2004

2004.6.6 (日)

Posted by とーる at 07:28 PM / カテゴリー: 2004年 / /

9:00 am頃から16:00 頃までお袋と交代して休ませてもらった。疲れはもう感じない。

午前中は看護婦。午後には古い友人の方がお見えになっていた。
朝オレが眠る前は、違う友人の名前を出し、「お別れの電話をしようか。」と言っていた。だがまだ深夜に近い早朝だったので、今は少し迷惑だと思うとお袋が説明したら断念していた。

オレが起きてから見た親父は、今朝の親父とさらに変わっていた。要求・要望は全く影をひそめて非常に静かな面持ち。来客後の姿だった。
手元はもう相当におぼつかない。ティッシュを2枚手渡しただけで「お前は気が利くねぇ。」などという。
写真をうっとりと見つめていた。オレら兄弟3人と孫5人が写っている写真だ。(現在は孫は6人いる)数年前の写真だが、うっとりと見つめて「あいつ(6/15東京着の姉)は間に合わないかもなぁ。」とぼそっと言う。オレは「まだ6月6日だものね。」としか言えなかった。今さら気休めなど言う気がわかない。今朝の時点でも、それ以前から、親父は自分の体が分かっていたのだ。今朝電話しようとしていた友人に、今の親父はもう電話すら出来ない。
6月15日など遠すぎる。

起きて5分でオレはウルウルしてしまった。
今日はニュースで窪塚洋介さんが飛び下りたと言う。今朝はレーガン元合衆国大統領が亡くなったと言う。

19:00
親父は横になりうつらうつらしている。さっきは腕を上げるのももう非常につらそうだった。見ていた写真も落としてしまう。
それでも近所に住む孫が来てくれたら、何とか起き上がり、休憩を何度もはさみつつ長い時間をかけて「最後のおこづかい」を自分の手から孫たちに渡した。死力を振り絞っているその姿にオレは感動した。孫が帰る際「立ち上がりたい」と言う。抱きかかえながら「無理だよ、父さん」と言うと「そうか。」とあきらめた。もう頑張らなくて良いよ。
今も顔や額に汗がうかんでいる。つらいのか。暑いのか。こんなに体中の水分という水分を失ってなお、汗をかいている。
おとといの事、親父は一緒に風呂に入る際、「何だかカラッカラに渇いて枯れていく感じだな。ジュクジュク病気で死ぬよりこの方がキレイで良いかもな。」と言っていた。今から比べるとまだ元気があった。

昨日気がついたが、親父は意識を含め全てが弱まっていってる中、一つだけより強固に命をつないでいるものに気付いた。

心臓だ。
心臓が、強く激しく鼓動している。残りわずかな血液でわずかな栄養を体中に必死に駆け巡らせている。体が振動するぐらい強く。親父の最後の生命線。

23:00
お袋は明日のため、眠ってもらう。お休み、母さん。
夕方孫が来て以降、しっかりとは目を覚ましていない。呼んだり触れたりすると反応するが、ほぼ昏睡状態なのだろうか。汗をしっとりと額と顔にかき、苦しげな表情のまま。激しい鼓動と不規則な呼吸。
しかし額を拭くと、目を開け、少し手を上げた。
時おり、腕がビクッと跳ねたり、ピクピクと指が動く。
最後に言葉を発したのは孫が来た時(17:00頃)と、その後、お袋の言葉に「うん」と言い、オレに「起こして」と言った時のみ。(21:00頃)この時は半ば起こしてしまったような感じだが。その後すぐ横になった。

21時〜22時頃、お袋と色々話をした。
お互い時間の感覚が狂っているようだ。お互いつい先日の事が何ヶ月も前の事のように感じている。
この2週間弱のことを自分なりに整理してみる。

徐々に進行していたが、5月下旬、体調が目に見えて悪くなってきた。そして月、水、金と看護婦が訪れ、火曜には医者が訪れ、土日は執筆の会議に友人の方々に来ていただいて、過密スケジュールが始まった。
親父の空いてる日は木曜日だけとなっていた。
・5月26日(水)(忘れもしない)
親父が「透、明日(5/27)か来週の木曜日(6/3)に千葉県佐倉市にある歴史民俗博物館に行ってみたいんだが、運転していってくれるか?」と聞いてきた。オレは大丈夫だったのだが、5/27(木)は父の友人がいらっしゃる日だったのを思い出し、やむなく6/3(木)に是非行こうと決まった。
・5月31日(月)
一緒に諸々の用事で区役所に行く。区役所内では車椅子を借りた。帰りにお気に入りのコーヒー屋「ドトール」に寄る。随分距離があるのに「大丈夫」と言って歩いていった。既に歩行がつらくなり始めていたので、家族の方が心配だった。この頃バリバリ執筆していた親父だったので、外出が少し楽しかったかも知れない。
・6月3日(木)
数歩以上歩くのが困難になった。前日の頑張りがたたったのか、朝から体調が格段に悪くなった。
歴史民俗博物館、断念。
夕方、体調が少し良くなり、葛西臨海公園に車椅子で行く。大観覧車に乗った。
これが最後の外出。
・6月4日(金)
昨日の散歩が楽しかったようで、朝、今日は上野公園に行きたいと言う。車椅子で国立博物館に入ってみたいと言う。しばらくぶりだと言っていた。
午後、体調は再び急降下。立ち上がる事が困難になった。
上野公園、断念。
・6月5日(土)
午前中にはパソコンに向かっていたが、午後には全くキーボードが打てなくなる。パソコンに最後に触ったのは、この日の午前中まで。
意識の低下も著しくなってきた。
・6月6日(日)
一晩中苦痛で眠れていなかった。
午前4時、おそらく最後の風呂に入る。正確にはシャワーだけで、一緒に体を洗った。
前日まで、苦痛緩和のため1日に3〜4回も入っていた風呂だった。この時は意識も比較的はっきりしていた。
風呂に入る前に裸になった時、全身鏡で自分の体を見ると言い張る。隅々まで自分で見る。写真を撮れと言い張る。
自力で立ったのはこの時が最後。
午前5時、横になる。

書いてて切ないし、何回も言うようだが、この進行の早さ。

お袋が今日話してくれた。
「佐倉の博物館に行きたいという事は、今年病院に手術前の入院中にも言っていた。」と教えてくれた。
早くオレにも言ってくれよ…。
「まだ元気が少しでもあった先週に。まだ看護婦の来訪などあまり必要としていなかった先週、来訪を断って行けば良かった。」と後悔しきり。

悔しい。


現在、6/7(月)午前0:16。
生きている。親父は生きている。
親父の嫌いなレーガン大統領とは同じ命日にはならなくて良かったなぁ。
つらそうな親父を見てると、起こしたくないんだが、もう返事をする事は無いのかな。

0:30
「イチチチチ」と一瞬目を覚ます。

›June 14, 2004

一週間

Posted by とーる at 02:19 AM / カテゴリー: 2004年 / /

6/6(日)の日記の後、もう父は起き上がる事はありませんでした。
目は閉じているものの眠っている訳ではなく、時おり(30分おきぐらいに)痛みを訴えてはまた目を閉じるの繰り返しでした。あれだけ飲まず食わずで、体の水分などわずかしかないであろうと言うのに、最後まで顔にも体中にも汗、脂汗をかいていました。

この日記とは別に、母と二人で書き記した「看護日記」があります。
6/6(日)は関東地方も梅雨入りした日でした。
「看護日記」を読み返すのもつらいけれど、6/7(月)早朝は土砂降りの雨でした。降ってはやみ、降ってはやみを繰り返した日でした。この日は早朝まで待って、あまりにも父の状態が悪いのでホスピスの方を呼び、衣服を替えてもらい口の中も拭いてもらいました。前日もそうだったけれど、この日も血圧は計測不能でした。あれだけ心臓は激しく鼓動しているのに、血圧は測定不能でした。
オレは朝の10時頃まで起きていたのだけれど、夜までは持つのではないかという事で少し眠らせてもらったのですが…。

午後1時、夜中から既に苦しそうだった父の呼吸が、数十秒に渡って止まるようになり、迷った挙げ句、姉が僕を起こしてくれました。その時既に、父は反応しなくなっていて「父さん!」と大きく呼びかけても何の反応もありませんでした。それから父の呼吸は弱まっていき、30分ほどでとうとう呼吸が止まってしまいました。ゆっくりと、息をひきとりました。
まだ体が温かかったのを良く覚えています。
ガン宣告以来、せまりくる死と逃げる事なく、父は平静に向かい合っていました。


2004年6月7日(月)13:35 渡辺 桂は永眠しました。


最後の日の早朝、まだ夜が明けず、まだ意識がある頃、父の手を握って色々話しかけました。
「今まで色々ありがとう。」「春の岬(*1)読んだよ。」「またSigonaに行こうね。」などと今までの様々な事を語りかけた時、父はすするように反応し、残りわずかな水分で涙を流してくれました。


今さらでも、最後の最後に父に言いたい事を伝えられて、それを父が聞いてくれた事が嬉しかった。


1週間が経ち、父は先日火葬され、現在お骨となって家にいます。
当初、死んでしまったのに父の衣類を洗ってしまってから「私は何故、死んでしまった人のパジャマを洗っているのか。」と気付いたりして涙を浮かべる母も、今では少し落ち着き、少しずつ父の物を片付ける気持ちに移りつつあります。
僕にとっても母にとっても、お互いに大切な話し相手だと思っています。何より母であり、父の事、そして父が生きた時代を知る貴重な証言者です。

今はゆっくり、残された母と一緒の時間を持ちたいと思います。
元々、残された限られていた時間を父と一緒に過ごしたいと思っていた3ヶ月でした。今は、近年毎年親戚を亡くし、今年は50年連れ添った人にも先立たれた孤独を感じている母と、ゆっくり事実を受け止めていきたいと考えています。
まだ色々としなければいけない事もありますし、とにかく時間が必要だと感じています。
おそらく「みんな去っていってしまう」と感じている母と、しばらくの間は一緒の時間を過ごしたいと思っています。それは生前の父の頼みでもありましたし、喜んでその責任は果たしていきたいと思います。
父と最後に外出した、葛西臨海公園の大観覧車は良い思い出です。
いずれ母と共に、父が訪れたかった千葉県佐倉市の歴史民俗博物館に、お骨の一部でも持って見に行く予定です。他にも父の思い出の地に散骨に行く予定です。(これがまた遠いのですが、家族が旅行を兼ねて楽しんでくる事を父は期待していたのだと思います。演出だとすれば、にくいですね。)


*1:父が生前ある月刊誌に連載していた「春の岬」という書物に、ガン宣告・そして手術後、「まえがき・あとがき」を加えて1册の本にすることにしました。その本のタイトルが「春の岬」です。



Katsura_2004.5.22.jpg
「ゴメン親父、オレ笑えなかったよ。」
2004年5月22日撮影


渡辺 桂  73歳


Jan. 7, 1931〜Jun. 7, 2004(昭和6年1月7日〜平成16年6月7日)

›August 12, 2004

偲ぶ会

Posted by とーる at 01:39 AM / カテゴリー: 2004年 / /

8月7日(土)に渡辺 桂を偲ぶ会が催され、予想以上の方々が遠方から来て下さいました。親父の命日から丁度二ヶ月の日でした。広い会場に200名弱の方が、遠くは北海道からも来て下さいました。偲ぶ会の開催に尽力して下さった方々、来て下さった方々には深く感謝を申し上げます。いみじくも広島(8/6)長崎(8/9)の原爆の日の間近に開催されました。いかなる理由であろうと断固「戦争反対」を唱え続けた親父も納得してくれたのではないでしょうか。

父ほどの年令や年代の方ですと、なかなか健康そのものの人は少ないようです。父のご友人の方にも、奥様の介護をしている中、偲ぶ会に来て下さった方もいらっしゃいました。他にも歩行が困難になっておられる方も多かったのですが、丁寧なお手紙を下さり大変感激しています。

ボクはと言えば、会の1, 2週間ほど前からは「親父の写真」をひたすら探してパソコンに取り込む作業等に没頭していました。偲ぶ会でお話をして下さる方がかなり増えてしまったため、その間親父の写真を大スクリーンにスライドショーで流そうという事で良いアイデアだと思いました。
ここで我が家の最も活躍頻度の少なかった「スキャナ君」の出番が回ってきました。この6年間で10回程度しか使われてなかったと思います。まずはアルバムを全部引っぱりだして、良さげな写真をチェックしていき、その後スキャンです。「良さげな写真」というのもお袋とはずいぶん見解が違うものですが、独断と偏見で選びました。
今のスキャナがどれぐらいの性能か分かりませんが、スキャナでたかだか100枚の写真を取り込むのも意外と大変なものですね。かなり遅いので、ちょっと高解像度で取り込もうとするとやたら時間がかかりました。

それで結局80枚ほどの写真を選んでスライドショーにしたのですが、当日ボクは受付にかかりっきりになってしまって肝心のお話の間には流せませんでした。それでも最後の20分ぐらいは繰り返し流せたので無駄にならなくて良かった。
これが結構良いんですよ。会の前日に、若い頃から順に並べて流してみたらジーンときちゃいました。昔の写真というのはとても良いものだと気付かされます。自分がその時代を知らなくても、その雰囲気をきちんと伝えてくれます。まさに百聞は一見にしかず、という感じです。

贔屓目(ひいきめ)を差し引いても、なかなか面白いと思いますので、近々Webギャラリーなぞ作って見てもらえるようにしたいと思います。その時はちょこっとのぞいてみて下さい。

他に父の遺稿集となった「春の岬」という本が「偲ぶ会」の前に出来上がり、ご出席の方々にお渡し出来ました。最初の予定よりも、そして予想していた以上に美しく仕上がって驚きました。ですが「初版」というものゆえ、誤植がいくつかあったのは少しだけ残念といえば残念でした。さすがに「生年月日」が間違っていたのは当初、「誰だ、タイプしてたのは〜!」と思いましたが、この短い期間に入力していたのを思えば、よく出来たと思います。原文の多くはまだパソコンを使わない時代に印刷されていたものですから、もう一回入力し直さなければいけなかったものです。
急いで作業を進めて下さったNさん、Iさんには感謝が堪えません。ありがとうございました。