›June 14, 2004

一週間

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6/6(日)の日記の後、もう父は起き上がる事はありませんでした。
目は閉じているものの眠っている訳ではなく、時おり(30分おきぐらいに)痛みを訴えてはまた目を閉じるの繰り返しでした。あれだけ飲まず食わずで、体の水分などわずかしかないであろうと言うのに、最後まで顔にも体中にも汗、脂汗をかいていました。

この日記とは別に、母と二人で書き記した「看護日記」があります。
6/6(日)は関東地方も梅雨入りした日でした。
「看護日記」を読み返すのもつらいけれど、6/7(月)早朝は土砂降りの雨でした。降ってはやみ、降ってはやみを繰り返した日でした。この日は早朝まで待って、あまりにも父の状態が悪いのでホスピスの方を呼び、衣服を替えてもらい口の中も拭いてもらいました。前日もそうだったけれど、この日も血圧は計測不能でした。あれだけ心臓は激しく鼓動しているのに、血圧は測定不能でした。
オレは朝の10時頃まで起きていたのだけれど、夜までは持つのではないかという事で少し眠らせてもらったのですが…。

午後1時、夜中から既に苦しそうだった父の呼吸が、数十秒に渡って止まるようになり、迷った挙げ句、姉が僕を起こしてくれました。その時既に、父は反応しなくなっていて「父さん!」と大きく呼びかけても何の反応もありませんでした。それから父の呼吸は弱まっていき、30分ほどでとうとう呼吸が止まってしまいました。ゆっくりと、息をひきとりました。
まだ体が温かかったのを良く覚えています。
ガン宣告以来、せまりくる死と逃げる事なく、父は平静に向かい合っていました。


2004年6月7日(月)13:35 渡辺 桂は永眠しました。


最後の日の早朝、まだ夜が明けず、まだ意識がある頃、父の手を握って色々話しかけました。
「今まで色々ありがとう。」「春の岬(*1)読んだよ。」「またSigonaに行こうね。」などと今までの様々な事を語りかけた時、父はすするように反応し、残りわずかな水分で涙を流してくれました。


今さらでも、最後の最後に父に言いたい事を伝えられて、それを父が聞いてくれた事が嬉しかった。


1週間が経ち、父は先日火葬され、現在お骨となって家にいます。
当初、死んでしまったのに父の衣類を洗ってしまってから「私は何故、死んでしまった人のパジャマを洗っているのか。」と気付いたりして涙を浮かべる母も、今では少し落ち着き、少しずつ父の物を片付ける気持ちに移りつつあります。
僕にとっても母にとっても、お互いに大切な話し相手だと思っています。何より母であり、父の事、そして父が生きた時代を知る貴重な証言者です。

今はゆっくり、残された母と一緒の時間を持ちたいと思います。
元々、残された限られていた時間を父と一緒に過ごしたいと思っていた3ヶ月でした。今は、近年毎年親戚を亡くし、今年は50年連れ添った人にも先立たれた孤独を感じている母と、ゆっくり事実を受け止めていきたいと考えています。
まだ色々としなければいけない事もありますし、とにかく時間が必要だと感じています。
おそらく「みんな去っていってしまう」と感じている母と、しばらくの間は一緒の時間を過ごしたいと思っています。それは生前の父の頼みでもありましたし、喜んでその責任は果たしていきたいと思います。
父と最後に外出した、葛西臨海公園の大観覧車は良い思い出です。
いずれ母と共に、父が訪れたかった千葉県佐倉市の歴史民俗博物館に、お骨の一部でも持って見に行く予定です。他にも父の思い出の地に散骨に行く予定です。(これがまた遠いのですが、家族が旅行を兼ねて楽しんでくる事を父は期待していたのだと思います。演出だとすれば、にくいですね。)


*1:父が生前ある月刊誌に連載していた「春の岬」という書物に、ガン宣告・そして手術後、「まえがき・あとがき」を加えて1册の本にすることにしました。その本のタイトルが「春の岬」です。



Katsura_2004.5.22.jpg
「ゴメン親父、オレ笑えなかったよ。」
2004年5月22日撮影


渡辺 桂  73歳


Jan. 7, 1931〜Jun. 7, 2004(昭和6年1月7日〜平成16年6月7日)