昨日は良かった体調も昨晩から悪化し、今日はかなり弱っている。嘔吐物に血液と見られるものも混じっている。
今日は楽しみにしていた千葉県佐倉市の「歴史民俗博物館」に行こうと予定していた日だったのだが、結局無理になってしまった。親父にとって「来週」という予定はもうたてられない。
加速度的に病状が悪くなっている。
昨日は何とか食物を取り込もうと努力していたのが(結果として)逆効果になってしまったのだろうか。今日を楽しみにしていたんだろうな。
昨日の話では、体重は43kg、今日の計測では42kgだったと言う。一歩一歩死神が近付いてきている。
3月頭ぐらいには51kgほどあったと言っていたから、もう10kg近く失った。見ている所、その殆どはこの1ヶ月間で失われているように感じる。手術後から一気に悪化している。
少し安定してきたので夕方、車椅子に乗ってお袋と3人で車で散歩に行った。葛西臨海公園に行き、観覧車に乗る。オレは初めて乗った。そして色々進歩しているのだと感心した。全て車椅子のままで乗り降り出来るようになっていた。乗り場の2階までエレベーター、そして乗り降りの際は観覧車を止めて、タラップをしいてくれた。
その後、車上から眺めながらお台場を通り、レインボーブリッジを通り、ちょっと飲みたいと言うのでスターバックスのエスプレッソコーヒーを買って帰った。
「明日は無い」という覚悟を自分に再確認した。
飲み物は「氷水(こおりみず)」だけになった。昨日あたりからとてもベタベタした痰(たん)が出るようだ。あっという間にティッシュが無くなる早さ。
それからここ2〜3日から、やたらと「風呂好き」になった。本人曰く「こんなに清潔好きなのは生まれて初めてだ。(笑)」とのこと。何だろうと思っていたが、理解出来た。
今使っている鎮痛剤は貼るタイプの薬で皮膚から吸収される。これは末期ガン患者に使われる「麻薬成分入り」なのだ。ちなみに数箱分で30万円近くしたらしい。手に入りにくくしている訳か。
この鎮痛剤は体温が上がって血行が良くなると「ちょっと効き過ぎる」ようなのだ。つまりお風呂に入ると少し楽になるようだ。薬の使い方としては邪道であり、このような使い方はしない方が良いと言われていたが、これは致し方ない。鎮痛剤は昨日量を増やしたのだが、それを上回るペースで病状が進んでいるのか。
親父は昨日もおとといも良く眠れていないと思う。おそらく眠れないのだと思う。日中も少し眠って、また起きて執筆している。
今日の体調の悪さに親父もいよいよと思ったのだろう。執筆のペースを上げたと言っていた。無理はしないで欲しいのだが、キーボードを打てなくなるのも正に時間の問題だと思ったに違いない。iBookに気力で立ち向かっている。今日は立ち上がるのも「何とか一人で」の状態。秋頃どころか「7月」が遠い彼方の先に感じる。
何も食えねぇんだもんなぁ。
姉夫婦が東京に来るのは6月15日。まだほぼ2週間あるよ。何とか間に合ってくれ。
孫の顔を見たがっている。
今の親父には2週間は長すぎて、短すぎる。
先週すたすた歩いて通った道を、今日は車椅子で通る。来週など未知数だ。きちんと明日が親父にも来て欲しいのみ。
オレが何とも悔しく感じる時は、「あれ食べたかったなぁ。」とか「あそこ行ってみたかった。」という希望を叶えてあげられない時だ。今日はそんな気持ちになった日だった。
今日も癌細胞は猛威をふるっている。定期的に黒褐色の液体を嘔吐する。時間的には数時間おきぐらいか。数日前「オレの小さな胃袋にこんなに物が入っていたのかと思うほどの量だ。」と言っていた。食べたものが全て出ている時期はとっくに過ぎたのだろう。今はおそらく血液、消化液を戻している。
体の中ではものすごい戦いが繰り広げられているのだと思う。増殖を続ける癌細胞、出血する臓器を止血しようとする血小板、胃の中の血液を消化しようと消化液を出す胃、肝臓、その他。圧倒的に数が少ないだろうが、必死に癌細胞を攻撃するNK細胞、そしてそれらの残骸。
その全てが空腹であるはずの小さな胃袋を満たし、溢れてくる。
そしてコントロールの効かなくなった体と親父の頭脳が鬩ぎ(せめぎ)あう。
癌に関わらず、これが闘病というものの実態である。
闘病は家族にも及ぶ。今の親父のように「自宅で」天に昇ろうという場合は尚更だと思う。
親父が盛大に洗面器に戻している間、オレとお袋は、結果的に変わりばんこに飯を食う。
とてもじゃないがオレも戻しそうだったけど、うまく収まってくれた。だがはっきり言って飯がまずい。どんな味だったか覚えてない。しかもお袋はカレーライス食べてた。(笑)
これは戦いなのだね。見えざる物との戦いだ。
がん関係リンク集:
国立がんセンターHP
がんはどこまで治るか?
癌と免疫
「免疫」のメカニズム
もし癌になってしまったら
それにしても、今日の弱り方も恐ろしいスピードであった。本日の体重41kg。
昨日の晩は良く眠れたようで、午前中は体調が良さそうだった。そして昨日の散歩が久しぶりの外出で(と言っても数日前の話だが)、とても喜んでいた。
今日も楽しみにしており、午後、上野公園に行きたいと言っていた。国立博物館を見て回りたいと。
だが、昼に大量に嘔吐。
その後、少し眠る。15:00頃、起きて風呂に入る。以前書いたように血行が良くなり麻薬(鎮痛剤)が体を巡り、とても楽になるのだ。オレは午前中外出していたので気がつかなかったが、これが本日2回目の風呂。親父は「今日の上野は中止だな。ちょっと無理だ。コロコロ変わってすまない。」と。 すまなくなんかないんだよ。
そして一服。Peace Lightを愛煙していたが、1ミリのタバコは何か無いかと言う。最近はMild Sevenも1ミリがあると言うと、それを吸ってみると。買いに走る。一服後、再び、パソコンでの執筆に励むが、最後に書いていた原稿が見つからなくなった。オレも探したが、ファイル名も分からず、どうにも見つからない。意識も朦朧としているようだが、何とか踏み止まっている感じだ。
その後、居間の電灯を取り替えたいと言い出した。22年使っているが、昨日とうとう「ヒモ」が切れて、中途半端な明るさで調節出来なくなっていた。暗いのがどうにも滅入るし、ノートパソコンの画面が見づらいと言う。にわかには受け入れられなかったが、急遽電気屋さんに来てもらって、カタログ拝見。明日の午後、交換を快諾してくれた。
2004.6.13(日)追記:
おそらくこの頃から、視力も弱くなってきていたのだと思う。パソコンの小さな画面がどうにも見づらくなってきていたのだろう。老眼鏡を変えてみたりもしていた。
余談だが、ここ1ヶ月、親父と運命を共にしているのか、家の家電製品が次々と壊れた。
まず、テレビ。これはもう数年前から壊れていたのだが、だましだまし使ってきて、2週間ほど前にとうとうご臨終。親父は野球が大好きでメジャーリーグをハイビジョンで見れるということで、念願の?ハイビジョンデビュー。その画質の素晴らしさには親父も感動していた。「芝生の1本1本が見える!」この時は親父も一緒にお店まで見に行けたのだった。ただそこは末期ガン患者、すぐ腰に鈍痛を訴えたので、即購入し、帰宅した。
個人的にはハイビジョンテレビは、まるでパソコンのようだ、と最近のテレビの最新テクノロジーに驚く。
そしてFaxの不調。この時も親父は一緒に見に行ったが、体調のため即購入。今のFaxは「普通紙印刷」であるという事を知った。ずーっと我が家は「感熱紙」だったのだ。今度のはしかもEメールまで出来る。やらねーよ、なんて悪態をついてみる。
そして居間の電灯の買い替え。今日聞いたら今は「グローランプ」など使わないのだそうだ。明るさも桁違いに明るいのだそうだ。何だか自分もすっかり老人になった気分。へこみ。
夕方、お袋は再び夕食の買い出しに出かけた。書きかけのファイルを見つけだした親父は、しばらくパソコンに向かい、思考しながら書いていたが、突然立ち上がろうとしたので、あわてて補助をする。今朝は自分で立ち上がれた体は、もう自分では立ち上がれなかった。
どこに行きたいかというと「風呂」と言う。親父は苦痛がつらいのだ。洗面所まで担いでいき、とりあえず座らせる。急いでお湯を組む。(40℃という親父の指定がある。高すぎるとのぼせるし、ぬるいと血行が良くならない。お湯は捨てずにとってあるので、半分捨てた後、熱湯を注いで熱くする。「おいたき」が出来ない我が家は今では古い家屋なのだろう。)お湯はすぐに汲めるので、その間に服を脱がせる。ついさっきまで風呂場で自分で衣服を脱ぎ、自分で入っていたのに、このスピードで自分の主(あるじ)の体を蝕んでいくのか、ガン細胞よ。
膝を抱えた姿勢でしばらくつかって、楽になった所で、体をふいて服を着せる。つい3日前までは息子に裸をさらすのを恥じていた父も、今はなすがまま。静かに「ありがとう。」と言ってくれた。このぐらいやるさ。
その後、ヤクルトー巨人戦を見ながら、深い眠りに付いた。
そして、ガン告知、そして自宅療養開始以来、初めてお袋と深く語った。親父の最近の病状のスピード、そして最期の覚悟の必要性について語った。親父が起きてる間にはとても話せないよ。
せっかく今日はヤクルトが競り勝ったのになあ。
これまでの日記を1つのエントリ(1ページ)で書いていたのだが、容量の限界になったようで、この後が切れてしまった。
最終的に朝の5:00頃まで看護していて、色々書いたのだが、思い出すのももうおっくうだしあまり意味も無い気がするので、そのまま。
6/6 (日) 5:00am。
今日も怒濤のような1日だった。ようやくオレも少し落ち着く。ノンストップ労働の休憩。
「常にスタンバイの状態」というのは16時間も持たないねぇ。ちょっと反省。
6/5 (土)
午前5:00頃、起きてきたお袋と交代してオレが寝た後、すでに起きていた親父は2度風呂に入ったそうだ。6〜7時頃と10時頃だったような。
15時、NさんとOさんがいらして「編集会議」をする。意識があまりはっきりしない。
話すのも非常に大変そうになってきた。
戻す回数はとても増えて、ほぼ常に戻している。そして朝は量が多かったようだが、昼以後はずいぶん量が減ってきた。現在、6/6午前3:00スプーン一杯ほど。今日は透明無色。医者が言っていた通りだそうだ。無色透明のと黒いのとがこれから交互に来るそうである。
17時頃から眠る。かなり深い眠り。19:30頃目を覚ます。その後、うつらうつら状態が続く。21時頃少しすいかと氷をひとかけら食べて、戻す。
23時頃お袋眠る。うつらうつら眠っているがかなり苦しいようで、30分置きに苦痛で目を覚ます。背骨が痛いと言う。楽な姿勢を探しては少し眠る。
起きてる間は要望がノンストップなので、大変なのである。オレは夜中じゅう起きて看護し、朝、お袋と交代して眠る。お袋が一人の間がかわいそうなのだ。親父は我慢が出来ないので、看護している側は大変である。
6/6 (日) 4:00am。
苦痛がひどいようで、すぐ起きてしまう。夢を見ていたそうで、ジャン・レノが(おそらく「レオン」の風貌のまま)親父をいじめるのだそうだ。背骨が痛いと言う。
オレの提案で親父は風呂ではなく、シャワーを浴び、久しぶりに体を洗う。親父の体を洗ったのは子供の頃以来だろうか。その後しばらく起きていたが、横になって眠った。
最近いつもの風呂である。が今回は自分で立っている事は出来なくなった。服を脱がせ風呂場まで行くと、まずする事があると言う。体重を計るのだ。
体重39kg。
毎日きっかり1kgずつ落ちていっている。飲まず食わずなのだから当然だろうか。
そして今度は全身鏡で自分の体を見ると言う。玄関まで連れていき、手鏡を渡すと背中まで写してじっくりと眺めている。その間もオレは体を支えている。納得したようだが何を思っていたのか。
どうしても写真を撮れというので、撮る。
この時が最後、一人で立っている事が出来なくなった。今日(6/5)午前中まではパソコンをいじっていたが、午後にはキーボードが打てなくなった。それ以降パソコンは触っていない。
手元がかなりおぼつかなくなった。握力もかなり低下した。話すのもひそひそ程度。6/5夕方以降、ベッドを降りたのはシャワーの時と、その後30分ほどだけ。
毎分毎分、体力が低下していく。それでも眠った後はかなり元気になる。寝てる・起きてるの周期がとても短くなっている。寝ているのは今日までで長くて数時間、それより少し短い間起きているだろうか。
今日はオレも体調が良くない。というか恐ろしく自分が老けたような気がする。少し頭痛もする。
見ている親父の毎日の衰え方が、健康な50代の人の10年ずつぐらいの衰え方に近いだろうか。食べてない上に体内がどんどん侵食されているのだから当然だが、こないだ外を歩いていたのが、おとといは車椅子になり、昨日は外にも出られなくなり、今朝キーボードをカチャカチャやっていたのが、午後には手が不自由になってしまう。
そんな親父を見ていて自分も衰えていってるような錯角に陥る。
時間の感覚も今日は良く分からなくなった。昨日あった事が、まるで一週間前のようで、おとといあった出来事が、一ヶ月前の出来事のように感じた。
思考も混乱していて、一つの事に集中出来なかった。常に親父が気になって、全く集中出来ない。食事までそうなってしまった。
今はずいぶん戻ってきた(気がする)。
ちょっと腰も痛い。お袋が起きてきて、エンジンかかってきたら少し休ませてもらおう。
6:00 am。
親父は少し眠って、起きて少し戻した。先ほど少し飲んだお茶の色だった。
ベッドを色々調節して(膝の高さ、頭の高さ)また眠りにつく。
1回のエントリ(投稿)にまとめて書いていたこの日記を、一日ずつに分けてエントリし直した。目に入った所だけ軽く読む。
親父の手術が4/12(月)、退院したのが4/20(火)。何か遠い昔のように感じてしまっていたが、わずか一ヶ月半前の事だった。オレは疲れてるのかな。でも緊張しているのか、だるいのだが眠くない。動きたくないが、頭は色々考えている。
昨晩(6/5)親父が眠っている間に、お袋と話していて驚いた事が一つ。
お袋によれば、医者は「おそらくあと4ヶ月程度。短ければ2ヶ月ほど。」と言っていたのだそうだ。
これは知らなかった。そして改めてショックだ。
9:00 am頃から16:00 頃までお袋と交代して休ませてもらった。疲れはもう感じない。
午前中は看護婦。午後には古い友人の方がお見えになっていた。
朝オレが眠る前は、違う友人の名前を出し、「お別れの電話をしようか。」と言っていた。だがまだ深夜に近い早朝だったので、今は少し迷惑だと思うとお袋が説明したら断念していた。
オレが起きてから見た親父は、今朝の親父とさらに変わっていた。要求・要望は全く影をひそめて非常に静かな面持ち。来客後の姿だった。
手元はもう相当におぼつかない。ティッシュを2枚手渡しただけで「お前は気が利くねぇ。」などという。
写真をうっとりと見つめていた。オレら兄弟3人と孫5人が写っている写真だ。(現在は孫は6人いる)数年前の写真だが、うっとりと見つめて「あいつ(6/15東京着の姉)は間に合わないかもなぁ。」とぼそっと言う。オレは「まだ6月6日だものね。」としか言えなかった。今さら気休めなど言う気がわかない。今朝の時点でも、それ以前から、親父は自分の体が分かっていたのだ。今朝電話しようとしていた友人に、今の親父はもう電話すら出来ない。
6月15日など遠すぎる。
起きて5分でオレはウルウルしてしまった。
今日はニュースで窪塚洋介さんが飛び下りたと言う。今朝はレーガン元合衆国大統領が亡くなったと言う。
19:00
親父は横になりうつらうつらしている。さっきは腕を上げるのももう非常につらそうだった。見ていた写真も落としてしまう。
それでも近所に住む孫が来てくれたら、何とか起き上がり、休憩を何度もはさみつつ長い時間をかけて「最後のおこづかい」を自分の手から孫たちに渡した。死力を振り絞っているその姿にオレは感動した。孫が帰る際「立ち上がりたい」と言う。抱きかかえながら「無理だよ、父さん」と言うと「そうか。」とあきらめた。もう頑張らなくて良いよ。
今も顔や額に汗がうかんでいる。つらいのか。暑いのか。こんなに体中の水分という水分を失ってなお、汗をかいている。
おとといの事、親父は一緒に風呂に入る際、「何だかカラッカラに渇いて枯れていく感じだな。ジュクジュク病気で死ぬよりこの方がキレイで良いかもな。」と言っていた。今から比べるとまだ元気があった。
昨日気がついたが、親父は意識を含め全てが弱まっていってる中、一つだけより強固に命をつないでいるものに気付いた。
心臓だ。
心臓が、強く激しく鼓動している。残りわずかな血液でわずかな栄養を体中に必死に駆け巡らせている。体が振動するぐらい強く。親父の最後の生命線。
23:00
お袋は明日のため、眠ってもらう。お休み、母さん。
夕方孫が来て以降、しっかりとは目を覚ましていない。呼んだり触れたりすると反応するが、ほぼ昏睡状態なのだろうか。汗をしっとりと額と顔にかき、苦しげな表情のまま。激しい鼓動と不規則な呼吸。
しかし額を拭くと、目を開け、少し手を上げた。
時おり、腕がビクッと跳ねたり、ピクピクと指が動く。
最後に言葉を発したのは孫が来た時(17:00頃)と、その後、お袋の言葉に「うん」と言い、オレに「起こして」と言った時のみ。(21:00頃)この時は半ば起こしてしまったような感じだが。その後すぐ横になった。
21時〜22時頃、お袋と色々話をした。
お互い時間の感覚が狂っているようだ。お互いつい先日の事が何ヶ月も前の事のように感じている。
この2週間弱のことを自分なりに整理してみる。
徐々に進行していたが、5月下旬、体調が目に見えて悪くなってきた。そして月、水、金と看護婦が訪れ、火曜には医者が訪れ、土日は執筆の会議に友人の方々に来ていただいて、過密スケジュールが始まった。
親父の空いてる日は木曜日だけとなっていた。
・5月26日(水)(忘れもしない)
親父が「透、明日(5/27)か来週の木曜日(6/3)に千葉県佐倉市にある歴史民俗博物館に行ってみたいんだが、運転していってくれるか?」と聞いてきた。オレは大丈夫だったのだが、5/27(木)は父の友人がいらっしゃる日だったのを思い出し、やむなく6/3(木)に是非行こうと決まった。
・5月31日(月)
一緒に諸々の用事で区役所に行く。区役所内では車椅子を借りた。帰りにお気に入りのコーヒー屋「ドトール」に寄る。随分距離があるのに「大丈夫」と言って歩いていった。既に歩行がつらくなり始めていたので、家族の方が心配だった。この頃バリバリ執筆していた親父だったので、外出が少し楽しかったかも知れない。
・6月3日(木)
数歩以上歩くのが困難になった。前日の頑張りがたたったのか、朝から体調が格段に悪くなった。
歴史民俗博物館、断念。
夕方、体調が少し良くなり、葛西臨海公園に車椅子で行く。大観覧車に乗った。
これが最後の外出。
・6月4日(金)
昨日の散歩が楽しかったようで、朝、今日は上野公園に行きたいと言う。車椅子で国立博物館に入ってみたいと言う。しばらくぶりだと言っていた。
午後、体調は再び急降下。立ち上がる事が困難になった。
上野公園、断念。
・6月5日(土)
午前中にはパソコンに向かっていたが、午後には全くキーボードが打てなくなる。パソコンに最後に触ったのは、この日の午前中まで。
意識の低下も著しくなってきた。
・6月6日(日)
一晩中苦痛で眠れていなかった。
午前4時、おそらく最後の風呂に入る。正確にはシャワーだけで、一緒に体を洗った。
前日まで、苦痛緩和のため1日に3〜4回も入っていた風呂だった。この時は意識も比較的はっきりしていた。
風呂に入る前に裸になった時、全身鏡で自分の体を見ると言い張る。隅々まで自分で見る。写真を撮れと言い張る。
自力で立ったのはこの時が最後。
午前5時、横になる。
書いてて切ないし、何回も言うようだが、この進行の早さ。
お袋が今日話してくれた。
「佐倉の博物館に行きたいという事は、今年病院に手術前の入院中にも言っていた。」と教えてくれた。
早くオレにも言ってくれよ…。
「まだ元気が少しでもあった先週に。まだ看護婦の来訪などあまり必要としていなかった先週、来訪を断って行けば良かった。」と後悔しきり。
悔しい。
現在、6/7(月)午前0:16。
生きている。親父は生きている。
親父の嫌いなレーガン大統領とは同じ命日にはならなくて良かったなぁ。
つらそうな親父を見てると、起こしたくないんだが、もう返事をする事は無いのかな。
0:30
「イチチチチ」と一瞬目を覚ます。
6/6(日)の日記の後、もう父は起き上がる事はありませんでした。
目は閉じているものの眠っている訳ではなく、時おり(30分おきぐらいに)痛みを訴えてはまた目を閉じるの繰り返しでした。あれだけ飲まず食わずで、体の水分などわずかしかないであろうと言うのに、最後まで顔にも体中にも汗、脂汗をかいていました。
この日記とは別に、母と二人で書き記した「看護日記」があります。
6/6(日)は関東地方も梅雨入りした日でした。
「看護日記」を読み返すのもつらいけれど、6/7(月)早朝は土砂降りの雨でした。降ってはやみ、降ってはやみを繰り返した日でした。この日は早朝まで待って、あまりにも父の状態が悪いのでホスピスの方を呼び、衣服を替えてもらい口の中も拭いてもらいました。前日もそうだったけれど、この日も血圧は計測不能でした。あれだけ心臓は激しく鼓動しているのに、血圧は測定不能でした。
オレは朝の10時頃まで起きていたのだけれど、夜までは持つのではないかという事で少し眠らせてもらったのですが…。
午後1時、夜中から既に苦しそうだった父の呼吸が、数十秒に渡って止まるようになり、迷った挙げ句、姉が僕を起こしてくれました。その時既に、父は反応しなくなっていて「父さん!」と大きく呼びかけても何の反応もありませんでした。それから父の呼吸は弱まっていき、30分ほどでとうとう呼吸が止まってしまいました。ゆっくりと、息をひきとりました。
まだ体が温かかったのを良く覚えています。
ガン宣告以来、せまりくる死と逃げる事なく、父は平静に向かい合っていました。
最後の日の早朝、まだ夜が明けず、まだ意識がある頃、父の手を握って色々話しかけました。
「今まで色々ありがとう。」「春の岬(*1)読んだよ。」「またSigonaに行こうね。」などと今までの様々な事を語りかけた時、父はすするように反応し、残りわずかな水分で涙を流してくれました。
今さらでも、最後の最後に父に言いたい事を伝えられて、それを父が聞いてくれた事が嬉しかった。
1週間が経ち、父は先日火葬され、現在お骨となって家にいます。
当初、死んでしまったのに父の衣類を洗ってしまってから「私は何故、死んでしまった人のパジャマを洗っているのか。」と気付いたりして涙を浮かべる母も、今では少し落ち着き、少しずつ父の物を片付ける気持ちに移りつつあります。
僕にとっても母にとっても、お互いに大切な話し相手だと思っています。何より母であり、父の事、そして父が生きた時代を知る貴重な証言者です。
今はゆっくり、残された母と一緒の時間を持ちたいと思います。
元々、残された限られていた時間を父と一緒に過ごしたいと思っていた3ヶ月でした。今は、近年毎年親戚を亡くし、今年は50年連れ添った人にも先立たれた孤独を感じている母と、ゆっくり事実を受け止めていきたいと考えています。
まだ色々としなければいけない事もありますし、とにかく時間が必要だと感じています。
おそらく「みんな去っていってしまう」と感じている母と、しばらくの間は一緒の時間を過ごしたいと思っています。それは生前の父の頼みでもありましたし、喜んでその責任は果たしていきたいと思います。
父と最後に外出した、葛西臨海公園の大観覧車は良い思い出です。
いずれ母と共に、父が訪れたかった千葉県佐倉市の歴史民俗博物館に、お骨の一部でも持って見に行く予定です。他にも父の思い出の地に散骨に行く予定です。(これがまた遠いのですが、家族が旅行を兼ねて楽しんでくる事を父は期待していたのだと思います。演出だとすれば、にくいですね。)
*1:父が生前ある月刊誌に連載していた「春の岬」という書物に、ガン宣告・そして手術後、「まえがき・あとがき」を加えて1册の本にすることにしました。その本のタイトルが「春の岬」です。

親父32歳、姉3歳、母30歳。
そして母のお腹の中には、じき生まれる姉が。
今から41年前の写真。
ボクのお気に入りの1枚です。
父の友人の方が写真を送って下さいました。今から2〜3年前の写真とのことです。
お袋と「こんなに良い表情はめったに見たことがない。よほど楽しかったのだろうね。」と嬉しく話していました。
ボクにとっても貴重な写真です。この場を借りてお礼を申し上げます。
この写真は大きく引き延ばし、8/7に催される「偲ぶ会」にて飾っていただく予定です。