›July 07, 2004

一ヶ月

Posted by とーる at 10:32 PM / カテゴリー: 想い出 / /

今日は7月7日、七夕です。
早いもので、親父が逝って一ヶ月が経ってしまいました。
この一ヶ月もとても目まぐるしいものだったけれど、どちらかと言えば、空虚な忙しさだと思わざるを得ない日々でした。
様々な方からお悔やみのお手紙をいただき、父は、そして家族も、とても幸せだと感じています。皆様の父との生前のご交誼を心から感謝しています。家族としても、とても心癒される思いがします。
それでもなお、やはり空白感があるのも事実です。「いつかは逝ってしまう」そう分かっていても、家族を失うことはつらいものです。母はなおさらでしょう。

親父は死ぬ前に猛烈に執筆していました。そして「春の岬」のあとがき以外にも、様々なことを書き残してくれました。一ヶ月程度でこんなに書いたのか?と思うほどの量でした。
どうもその親父の文章によれば、お袋とは幼なじみであり、いつから付き合いだしたのかは不明なほどだそうです。最低でも50年以上、おそらく60年以上の付き合いなのでしょう。そのぐらいの付き合いにもなると、両親とよりも長く一緒にいるわけで、つらくて当たり前の離別でしょう。
落ち着いたら、今度お袋にも聞いてみようかと思います。

親父の書いた文章はまた後ほど「そのまま」の状態で載せようと思っています。戦前、戦中、戦後を生きた人間でした。そして世界各国(主に途上国ですが)を訪れ、住んできたものの言葉としても載せたいかなと思います。

当然の事なのだけど、世の中の「登録」から親父は急速に抹消されていっています。
死後間もなく届いた、参議院議員選挙の投票入場券にも既に、親父の名前はありませんでした。もうこの世にいないので当然の事なのだけど、家族としては「急速に忘れ去られ、生きた証さえ消し去られていく」ような錯覚に陥ります。単なる「遺族のわがまま」ですね。

6/16〜6/27にはニューヨークに住む姉一家が東京に来てくれていました。
残念なことに親父の最後には間に合わなかったけれど、久しぶりに会えて、元気そうな姿を見れて本当に嬉かった。幼い子供達4人を連れての長旅は大変苦労があったはずなのに、どこにもそのような素振りは微塵も見せませんでした。最初はとても人見知りで、ボクなど他人と感じていた子供達も、最後の夜は痛いほど(一人の子がやたらぶつのだ)打ち解けてくれて嬉しかった。
彼らが東京での2週間弱が楽しく有意義であったことを願っています。
本来は親父が、自らニューヨークにおもむいて、最後のお別れを言いたかったくらい、とても会いたがっていた家族でした。(幼い子供4人を連れて旅をするのは大変なので、自分から赴こうとしていました。)

手術後、親父が希望していたスペイン・バルセロナへの旅行は、結局叶いませんでした。親父は美術も好きでした。おそらく写真でしか見たことのなかった、「アントニオ・ガウディ」の建築を一目見たかったのだと思います。とりわけ「サグラダ・ファミリアその2」は是非この目で見て、登りたかったことでしょう。残念です。
バルセロナは叶いませんでしたが、親父は今年2月にお袋と沖縄に行っていました。ボクの中では時期が不明でしたが、どうやら診断の結果ガンと分かった後に「死んでも行くぞ!」と母と共に沖縄に行った模様です。その時は不覚ながらボクは診断結果がガンとは知りませんでした。
新しく出来た沖縄の巨大水族館<沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館>はとても楽しかったようで、帰ってきてからも何度も「ジンベエザメ(ジンベイザメ)の口は餌(プランクトン?)を食べる時、四角くてこんなに大きいんだぞ。」と手を広げて言っていました。本当に楽しかったのでしょう。
親父が大切にとっておいたこの水族館の入場券を探しているのですが、看護・介護のどさくさで、捨ててしまったかどこかに行ってしまったようです。ジンベエザメの絵が描いてあって、かわいらしいチケットだったのですが、これまた残念です。
必ずボクも訪れてみたい場所の一つです。

›July 09, 2004

『お先に失礼』

Posted by とーる at 07:07 AM / カテゴリー: 残した言葉 / /

これは2004年5月29日に故渡辺桂がFax、そしてメールにて友人の方々にお送りした文章です。
「春の岬」に添える手紙として妻文子の言葉を付け加えてあります。

 以下の文書『お先に失礼』は渡辺 桂が5月29日付で、彼の病気を心配するごく親しい、遠慮のいらない友人の皆さま方へ宛て、自分の病気のことや心境等を申し述べた手紙でございます。お読み下さる皆々様にはこのことを含みいただいてご一読下さるようお願いいたします。
妻 渡辺 文子

『お先に失礼』
   ー皆さんにご挨拶ー

2004. 5. 29
渡 辺  桂

 "A willow tells me・・・(柳が言いました)" というエレガントな表現が英語にあります。日本語でいえば、ちょっと味気ない感じになりますが、「仄聞するところでは・・・」、あるいは「世間の噂では・・・」というのでしょうか(実際に英米人が私と同じような感じ方をするのかどうかは調査不足に終わりました)。

 さて、私の胃ガンも、うすうす皆さんの耳に届いているのではないかと思います。初めに断っておきますが、再発ではありません。新生第2胃ガンです。 私の家系には、愛煙家が顔を並べているくせに肺ガンは一人もいません。多分遺伝子、あるいは例のピロリ菌のせいか、胃ガンは結構います。
 体調不順に気がついたのは2月半ばでした。食欲不振だなと思っていたところ、ある晩いやな吐き気と背痛を感じだし、10時頃になって、このまま明日の朝まで我慢するのはたまらんなと、救急車を呼びました。実は救急車のお世話になったのはこれが初めてで、「あと残るのは霊柩車だけだ」と家内に冗談を言いました。自分でも大げさかなと思ったのですが、以前腸閉塞になったとき緊急外来へタクシーで行ったら、大分待たされた挙げ句に、何故もっと早く来なかったのですかといわれ、ガックリした経験があったからです。マンションの玄関までおりて待っていたら、案の定「歩けるんですか」と驚いたようにいわれ、後ろめたい感じで墨東病院に着きました。さすがに今度は早く診て貰え、とりあえずその晩は簡単な検査のあと、痛み止めをもらって帰りました。
  「あっ胃ガンだ」と気がついたのは、翌日から精密検査を数回やり、胃カメラを飲み、管を飲んだままモニターを上目遣いで覗いていたときでした。かなり大きな腫瘍(シュヨウ)があるのがはっきり分かりました。医師に「このための吐き気と背中の痛みでしたか」というと、「多分その関連だと思います」との答えでした。
 正直なところこれには少なからず驚きました。なぜなら、14年前にガンで三分の二を切り取られて以来、みじめなようなサイズになった胃に再び癌ができるとはほとんど予想していなかったからです。今度できるなら肺か、大腸か、食道か、とにかく胃以外のところだろうと思いこんでいました。それなら驚きはしなかっただろうというのが実感でした。しかし、そういう思い込みには根拠がないことも事実で、できてしまってそれがかなり進行しているのを見ると、なるほどこういうケースもあったのだと変に納得しました。野球に例えると、以前簡単に三振で打ち取った打者を甘くみて、ど真ん中に直球を投げたら、みごとにホームランを打たれてしまった、とそんな感じでした。いや、まったくの話、逆転サヨナラホームランでした。ここで曵かれ者の小唄を歌えば、今でもあまり後悔はしていません。人生には優先ニーズがあり、その高いものに絞っていかなければ、病気に、あるいは人生そのものにも振り回されてしまいます。この場合私の能力を上回ったイガン君の長打力にシャッポを脱ぐばかりです。
 これで人生降板ときまったわけですが、今度のガンの受け取り方は前回とはだいぶ違います。14年前の前回は、いくら早期発見とはいえ、小生もまだ60才未満、仕事はし残したことが大分あるし、娘は二人ともまだ結婚していないし、息子は大学へ入るところだし、思いを残すことだらけでした。今度は違います。65才定年で辞める前に思いきったアプローチの仕事もできたし、娘たちはそれぞれ良い亭主を見つけ、孫も6人生まれたし、息子も(親父に似て)だいぶ青春彷徨しましたが、自分の進む道ははっきりと見つけたようだし、思い残すことはほとんどありません。
 今の日本人男性の平均寿命は77才だそうですが、その最後の5年間は何らかの看護・介護を受けている状態だそうです。そんなことになる前に元気な状態でぽっくり逝くのが理想だなと思っていましたから、もうすでにその年齢を過ぎているわけで、あまり文句はないということです。
 私は自分で「七割人間」だと思っています。大きな失敗もあったし、3割ぐらいは無駄でダメなこともしたけれども、まあどうにか七割ぐらいは良いことをしてきたんじゃないかという楽観的・主観的評価です。友人や家族から「オイ、甘過ぎるよ。6割じゃないの?」とか、「もっと悪いこともしてたんじゃないの?」と言われても怒ったり狼狽したりはしません。
 繰り返しになりますが、私個人は十分長い時間生きてきたと思っています。人間はいずれ100才未満ぐらいで誰でも死ぬのです。だから、死ぬことを恐れたり、いまさら生にしがみついたりはしません。もちろん死に急ぐなども考えません。開発途上国の僻地でいろいろな死に方を見てきました。ネパールの貧しい山村で従容と死を待つ老人、自分の勇気を試してライオンと戦い死ぬマサイの青年、あたかも周囲の大自然と一体化したような彼らの死に方を見ると、「先進国」の健康だとかグルメの話など薄っぺらに見えてきて仕方がありませんでした。
 私は痛いことはいやだし、堪(コラ)え性も良くありません。だから、痛くさえなければ割りと平生どおりの生活を続けて死んでいけるのではないかと考えます。それはちょっと甘い香りのする期待でもあります。因縁話めきますが、私の母も73才で胃ガンで亡くなっています。31年前のことですが、「お父さんは薄情だ。臨終近くなったら見舞いにも来なくなった」と姉たちに責められた父が、「あの痛がり様は可愛想で見ちゃいられなかったよ」と私に洩らしたことがありました。私は母のようにはなりたくありません。
 墨東病院の誠実な医師たちの勧めもあって、今は拙宅の近くの両国にある、在宅ホスピス専門クリニックにかかっています。これはガンの根治が望めない場合、ガンと共存し、症状緩和のためにのみガンを叩き、体の延命ではなく、人間としての延命を最大目標としています。これであと3ヶ月〜6ヶ月ぐらいでこの世にバイバイする予定(個人差はかなりあるそう)です。
 ひとつだけお願いがあります。それは「そっとしておいていただきたい」です。この際もう一度会っておきたいとか、昔話をしたいとかいうのは、失礼ながらそちらの希望であって、私の方は徐々に衰える体力でそこまでおつきあいすることは不可能になってきています。そういう希望にお答えすれば数十人になるかも知れません。いくら7割男でも身辺の整理にはある程度意志と体力が必要なので、これはいっさいお断りするしかありません。いま会っても、昔どおりの元気な顔をお見せするわけにはいきません。「死ぬ前にはかなり衰えていたよ」とか「骨と皮だったよ」などの印象を与えるよりは、昔のイメージを残しておきたいというのが私のささやかな虚栄心とご理解いただいて結構です。
 私は無宗教ですのでふつうの葬儀はいたしません。まず火葬してもらい、その後に「お別れ会」とか「偲ぶ会」とかいったものを小規模に催してはどうかと思っています。ご用とお急ぎがなくてご参加いただけたら幸甚です。ま、私にはどうでもいいようなことですが。
 墓も要らないと家人には言っています。理由は簡単明瞭で、皆が墓を作っていたら、あと数千年ぐらいで地球上は墓だらけになってしまうではないか、です。そのかわり私の好きだった場所(イタリア、ケニア、ネパールの某所、1〜3ケ所)へ散骨しに行くよう、これは遺言に書くつもりです。海外(慰安)旅行の「惹句」(justification)としてこれは最高だぞと家族に言っています。
 「お別れ会(仮称)」は莫逆の友に丸投げしていくつもりですから私に責任はありませんが、面白い趣向を(酒肴も)入れて会費をいただいてはどうかなどと考えています。私の駄文をまとめた本を一冊、参列お礼に差し上げるつもりでいます。この会について良いアイデアをお持ちの方、あるいは興行の才ありと自認される方はメールでご連絡ください。

 ではお先に失礼します。ちょっとお先にです。そのちょっとというのは意外に短いかも知れませんよ。「散る桜 残る桜も 散る桜」 今年の桜は病院を抜け出して、都内の見どころは全部見て回りました。とてもきれいで、今生の思い出になりました。

›July 18, 2004

このWeblogについて

Posted by とーる at 12:41 AM / カテゴリー: このサイトについて / /

このWeblogは今年(2004年)胃ガンによりこの世を去った父、渡辺 桂の生きた人生、そして生きた時代の記録を残していこうと思い息子が書き記すWeblogです。
定期的な更新は少ないかも知れませんが、少しづつ書き足していきたいと思います。

なおこのWeblogは通常のWeblogと異なり、古い書き込みが上に、新しい書き込みが下に表示されるようになっています。
これから書き込む全ての記述は、過去の回想・証言・記録であるためこのようにしています。